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葉隠

「僕は雑草」という題で、ちょうど2年前の3月に日記を書いた。吉井和哉の曲「CALL ME」の詞にある「雑草みたいにさりげなくアスファルトを突き破りたい」というフレーズに思うところがあっての題であった。

この仕事を始めて、特に東京の職場に来てから、切に思うようになった。僕は雑草である。周りの人間は花壇の中で生まれ育ち、咲いた者ばかりだ。しかし雑草雑草でしかなく、花壇に生えることはできないのである。

先日、三島由紀夫の「葉隠入門」を読んだ。江戸時代、山本常朝が口述した「葉隠」を、三島由紀夫が解釈・紹介したものだ。その中の一節に感じるものがあったので、ここに記しておく。

 茶の湯に古き道具を用ふる事をむさき事、新しき器綺麗にして然るべしと申す衆あり。又古き道具は、しをらしき故用ふるなどと思ふ人もあり。皆相違なり。古き道具は、下賤の者も取り扱ひたる物なれども、よくよくその徳ある故に、大人の手にも触れらるるものなり。徳を貴みてなり。奉公人も同然なり。下賤より高位になりたる人は、その徳ある故なり。然るを、氏もなき者と同役はなるまじ、昨今まで足軽にてありし者を頭人には罷り成らず、と思ふは以ての外の取り違ひなり。もとより、その位に備はりたる人よりは、下より登りたるは、徳を貴みて一入崇敬する筈なり。

 

(訳)
 「茶道で古い道具を用いることはむさ苦しい、新しい器のほうがきれいでいい。」などという人がいるということだ。また一方では、「古い道具はもっともらしいから使うのだ。」などと考える人もあるが、どれも違っている。
 古い道具は下賤の者も取り扱った品ではあるが、古いなりに品格が備わっているものだから、高貴な人の手にも渡るようになったのである。みなその品の徳を尊んでのことである。奉公人にしても同じで、下賤から身を起こし高い身分にまでなった人は、その人にそれなりの徳が備わっていたからなのである。それなのに、氏素姓のはっきりしない奴といっしょの仕事はいやだとか、いままでは足軽であった者を自分の上司とするわけにはいかない、などと思うのは、もってのほかの考えちがいである。
 本来、はじめからその地位にあった人よりは、下々からのぼった人は、それだけの徳があるのだから、なおいっそう尊敬しなければならない。

この引用は自慰だ。ただのオナニーでしかない。

僕は恐らく一生花壇に住むことはできないだろう。しかし雑草雑草らしく、気高く生きていたい。