蕉風徘徊(後)

朝9時、一関駅を出発しようとするも、平泉へ向かう次の列車は10時過ぎにしか来ないと知る。今日は訪れたい場所が多数あるので、こんなところで立ち往生していられない。列車賃200円の10倍もの運賃を払う必要があるが、目を瞑ってタクシーに乗り込んだ。

タクシーの運転手は平泉駅に着くまでの間、気さくに話をしてくれた。中尊寺毛越寺をはじめとした平泉の観光スポットは各々の間に多少の距離があって、歩いて見て回るのは大変なので、平泉駅横で借りることができるレンタサイクルを使うといい、というアドバイスもくれた。しかし歩くのが好きな僕は、結局レンタサイクルを借りずに平泉駅を後にした。

まずは平泉駅を北へ進むと、無量光院跡(むりょうこういんあと)がある。
無量光院は、奥州藤原氏三代の秀衡が平等院を模して建てた寺院である。建物は焼失してしまって、今は無い。近年までこの跡地は田んぼだったらしく、最近になって池の整備が行われたとのこと。

f:id:b3rd:20160619095146j:plain無量光院跡

無量光院跡のすぐ近くに高館義経堂(たかだちぎけいどう)がある。源義経の終焉の地であり、江戸時代に小さな堂が建てられている。芭蕉の有名な句「夏草や兵どもが夢の跡」はここで詠まれた。眼下には北上川が流れ、林の中に義経堂が静かに佇んでいるだけである。芭蕉が「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と杜甫の詩を引用したのにも頷ける。昔には、京の都に次ぐほどの繁栄があったという平泉は、今となってはその影すらない。人の文明はこうも儚いものなのだろうか‥

f:id:b3rd:20160619100953j:plain高館義経

高館からさらに北へ15分ほど歩くと、中尊寺の入り口である月見坂に着く。急勾配なこの参道を抜けると中尊寺である。

f:id:b3rd:20160619102546j:plain月見坂

 

f:id:b3rd:20160619103907j:plain本堂

f:id:b3rd:20160619104728j:plain金色堂

金色堂に辿り着いた芭蕉は、ここでまた有名な句「五月雨の降り残してや光堂」を詠んだ。芭蕉の頃にも金色堂は見事な光を放っていたのだろう。それが今も変わらずに光り輝いているのは、大変なことだ。素晴らしいとかそういう形容で片付けられるものではない。奥州藤原氏の栄華が見る影も無く廃れてしまった分、金色堂が対比され、輝いて見えた。

f:id:b3rd:20160619105400j:plain芭蕉句碑

中尊寺には本堂や金色堂のほかに諸堂が点在していて、各々で御朱印を頂ける。頂いた御朱印は以下の13個。

中尊寺を後にして、平泉駅方面へ戻って柳之御所跡に行く。柳之御所跡は三代秀衡の政庁跡。ここも建物などは跡形も無く、ただ草地が広がるだけである。

f:id:b3rd:20160619130400j:plain柳之御所

最後に観自在王院跡(かんじざいおういんあと)と毛越寺(もうつうじ)へ。観自在王院は二代基衡の妻が建てた寺だが、焼失してしまって今は池が残るのみ。毛越寺は基衡が再興した寺。壮大だったというがこれも焼失してしまって、今現在建っている本堂は明治のものらしい。

f:id:b3rd:20160619133137j:plain毛越寺

タクシー運転手の「平泉はね、昔はとってもでかい都だったんですよ。」『だった』という言葉が心に響く。平泉ではとにかく「何も残っていない風景」ばかり見ることができたという印象である。ここは夢の跡だった。何とも言えぬ無常感に包まれて、僕は東京に戻った。