花は眠らない

六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開かれている「フェルメールレンブラント:17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち展」に行ってきた。

そういえば、2年前のちょうどこの時期にも、同期数人とこの美術館を訪れたことがあった。その時に見たのはアンディー・ウォーホル展だったと記憶しているが、岡本太郎展だった気もする。忘れてしまった(どちらも確かに東京で見たはずだが、日記には書いていない‥)
(追記)岡本太郎展は、2011年に東京国立近代美術館でやっているのをAと見に行ったのを思い出した。就職してすぐの東京での研修中、大学院生で同じく東京にいたAを誘って行ったのだった。

昨年のルーヴル美術館で、フェルメールは「レースを編む女」などを見たし、レンブラントもいくつか見たと思う。それから二者にはなんとなく親しみのようなものを覚えて、美術展鑑賞が趣味というわけではない僕も、今回の展覧会には足を運ぶ気になったのである。

大々的に二名の名前を押し出した展覧会だが、フェルメールは「水差しを持つ女」、レンブラントは「ベローナ」のそれぞれ1点ずつのみの展示だった。いずれも日本初公開とのこと。「水差しを持つ女」は、フェルメール・ブルーと呼ばれる青が印象的であった。とはいうものの、この二名以外の作品は、相変わらずどれも一緒に見えてしまった。西洋美術にはほとんど親しみがないので、当然といえば当然なのかもしれない。

「美を見る目」、いわゆる審美眼に関しては、興味を惹かれる一節を最近見つけたので、記しておこう。図書館でたまたま手に取った川端康成の文庫本の中に、「花は眠らない」という非常に短い随筆があり、その中で彼はこう言っていた。

 人間の美を感じる能力は、時代とともに進むものでもないし、年齡につれて加わるものでもない。‥‥。美を感じる能力は、あるところまで、むしろ進みやすいものと思う。頭だけではむずかしい。美に出合うことである。親しむことである。その重なりの訓練であるが、しかし例えばただ一つの古美術品が、美の啓示となり、美の開眼となることは実に多い。それが一輪の花でもよいわけだ。

美しいものを美しいと感じる力は、美しいものに出会うことの繰り返しの中で育っていく。その力を育まなければ、美しいものを見ても美しいと感じないし、日々の生活の中で周りのものが本来持っている美しさに気づけないまま、我々は死んでいくことになる。その人生はなんとつまらないことだろうか。日々の訓練が、人生を豊かにすることに繋がるのだと思う。

東京で生活する醍醐味の一つは、今回のような貴重な作品と出会う機会に溢れているということだろう。少なくともフェルメールの作品は、来日したとしても東京の美術館か国立系の美術館で展示されることがほとんどなので、熊本にいてはまず見ることができない。東京にいる残り1年3か月、こういった機会を大事にしたいと切に感じている。