秋の色

これを書いているのは12月11日である。10、11月は体調が優れず、アメリカ編を途中まで書いたところで筆を全く執れなくなってしまったが、Aと遠方へ遊びに出掛けたのが3回あり、必ず日記に書かねばと思っていた。いつかの日記で、朽ちていくものは美しいと書いた覚えがある。人間はそうではない。人間が朽ちていくことほど醜いものはない。しかし一度作った思い出は不変だ。朽ちる人間が醜いからこそ、変わらぬ思い出は美しいのかもしれない。ただ、思い出は思い出すことができなければ思い出ではない。だから忘れないように日記を書こうと思う。

 

11月26日から27日にかけて、Aと京都へ紅葉を見に行った。秋の京都へ行きたいなという話は、実は昨年から出ていた。しかし僕の仕事の都合やら何やらで昨年は行くことができず、今年になって再度話が持ち上がり、実現することとなった。

朝10時前、東京駅集合。ビール等々を買い、新幹線に乗る。

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昼過ぎに京都駅に降り立った。漠然と紅葉を見ることしか考えておらず、行く先を考える。かねてから僕の訪問リストに挙がっていた南禅寺へ行くことに。

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南禅寺は参拝客でごった返していた。紅葉シーズンの京都はこれほどまで人が多いのかと思い知らされる。桜の時期も多かったが、それ以上である。境内に、近代的な赤レンガ造りのアーチ橋「水路閣」があったが、人が多すぎて、一目見てその場を後にした。

人混みに圧倒されて一気に疲れてしまった僕達は、一旦四条まで戻り、喫茶店で休憩することにした。ちょうど「男の隠れ家」12月号で、昭和のレトロ喫茶特集をやっていて、京都の「築地」なる店が紹介されていたのを思い出し、そこに行ってみることにした(余談だが、「男の隠れ家」は僕が毎月(立ち読みで)チェックしている、シブい特集を組むオツな雑誌。以前、長野県の妻籠宿へ足を運んだことがあったが、妻籠宿はこの雑誌を読んで知ったものである)。「築地」は昭和9年創業。名物のウインナーコーヒーを貰った。年季の入った内装はかなりオツだったが、とにかく店員の挨拶(掛け声)がうるさくて参った。あまりにもうるさいのでAと笑ってしまった。

「築地」を出、宿へ向かう。一昨年の夏、昨年の春とお世話になった、塩小路通にある民宿である。宿の主のお婆さんはお元気そうだった。「台所にあるものは何でも好きに使ってね」とお婆さんが言ってくれ、Aが早速お湯を沸かして烏龍茶を淹れていた。

一段落したところで、今度は清水寺の夜間参拝へ行くことに。この時期、紅葉がライトアップされているのである。

清水寺南禅寺を上回る人の多さだった。清水の舞台の上はバーゲン会場のような有様で、ここで将棋倒しが起きたら死人が出るのではないかと思うほどであった。

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清水寺を出たら、産寧坂二年坂を通って祇園の方へ向かうのも風情があって良いですよ、という話を宿のお婆さんから聞いていた僕達は、清水坂を下りる途中で北に入る小道に入った。産寧坂二年坂、石彫小路と続き、八坂神社まで伸びる石畳の道である。両脇に土産屋等が並び、お婆さんの言ったとおりとてもオツな通りだった。産寧坂二年坂が交差するところにあった「とうふまんじゅう」屋に興味を惹かれ、せっかくなのでと食べてみることにした。おからのような餡が入っていて、意外と美味かった。

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祇園まで歩いて来、今年2月の京都の夜に入った居酒屋「遊亀」を訪れた。隣のお客さんに小言を言われたことが思い出深い。人気店ということなのか、待ちの客が10人ほど店の外で列になっていた。とにかくいい店なので、どうしてもAを連れてきたかった僕は、無理を言って並ばせてもらった。結局30分近く待ってしまってAには申し訳なかったが、美味い酒にAも満足してくれたようで良かった。2人ともへべれけになりながら京阪電鉄に乗り、23時過ぎに宿へ戻った。

翌朝、京都タワー下の銭湯で風呂に入った後、京都駅で朝飯を食べた。

この日は平等院へ行くことにしていた。京都駅からJRで20分ほど。2014年まで瓦の葺き替えや柱の塗り直しが行われていたらしく、外観は新築の建物のようだった。

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昼過ぎに新幹線に乗って東京へ戻った。秋の京都はとにかく人が多すぎたということを2人で嘆き合った。京都の街それ自体は、四季折々で違った姿を見せてくれる。それだけに、そうした姿が持つ情緒が、観光客の存在によって失われているような気がして、残念に思う。